「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル」とは

■米軍ハウスと稲荷山公園
都心から北西に40kmほど。埼玉県狭山市にある稲荷山公園(旧ジョンソン基地跡地公園:ハイドパーク)のそばには、地元の人たちから“アメリカ村”と呼ばれていた集落がありました。国道16号線沿いに立ち並んでいた“米軍ハウス”はアメリカ軍人の家族のための住居でした。それが、進駐軍が帰国したあと民間に払い下げられ、1960年代末から1970年代初頭にかけて、若者たちがその“ハウス”に移り住みはじめるようになります。その住人の中に細野晴臣や小坂忠、西岡恭蔵、吉田美奈子ら何人ものミュージシャンたちがいたことから、狭山の米軍ハウスは音楽ファンはもちろん、社会的にも関心を集めました。

■狭山と「日本のロック」
細野晴臣の1973年のアルバム『HOSONO HOUSE』には、レコーディング場所として、当時彼が住んでいたハウスの住所 (狭山市鵜の木11-36) が記されていますし、小坂忠のアルバム『もっと もっと』(1972年) のバック・カバーには、米軍ハウスの写真が使われています。当時、「日本のロック」の新しい表現が狭山という町での暮らしの中から生まれた―。そう考えてもまちがいではないでしょう。


稲荷山公園
西武池袋線「稲荷山公園」駅前。入間基地の北西に広がる公園。住民のレクリエーションの場として、また災害時の避難地となる防災公園として計画され、平成14年からは県営公園となっています。毎年春には約300本の桜が花を咲かせます

稲荷山公園は、かつて「ハイドパーク」という名称で狭山・入間市民に親しまれていました。アメリカ空軍の「ジョンソン基地」跡地だったハイドパークは、1973年に日本に返還され、1976年に一般開放されて以降、今日まで市民の憩いの場として愛されてきたのです。
わたしたち「ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル実行委員会」は、この公園がいまも保ちつづけている「自然」は何より素晴らしいものだと考えています。多くの公園が画一的に管理・整備されていく過程でその歴史や独自性を失ってゆくことを思えば、稲荷山公園は貴重な、市民にとってかけがえのない財産です。
稲荷山公園は、1960年代末から1970年代初頭にかけて、アメリカの象徴のような場所でもありました。当時の若者たちにとってそこは、公園周辺に数多く建っていた米軍ハウス同様に、“アメリカのイメージ”を直接的に感じられる場所でした。大げさに言えば、ハイドパークはアメリカ文化への「魅惑的なドア」だったのです。
そのことは、当時、全国各地から多くの若者たちが狭山の「ハウス」に移り住んだことからも明らかです。そのなかには、麻田浩、細野晴臣、小坂忠、洪栄龍、吉田美奈子ら、日本のロック・ミュージックの歴史に輝かしい足跡を残したミュージシャンたちもいました。
ハイドパークや米軍ハウスでの生活は、彼らの芸術的な想像力 (イマジネーション) や創造力 (クリエイティヴィティ) を刺激し、新しい作品の誕生をうながしました。1960年代後期にアメリカで起こったカウンター・カルチャーの種子の何粒かが、数年後に日本の、それも狭山で芽を出したのです。
稲荷山公園で音楽フェスティバルを開こう―。ある日、わたしたちはそう思い立ちました。そして、その自分たちのアイディアに興奮しました。1970年代にこの地で生まれた音楽がその後の日本の音楽シーンにいかに大きな影響を与えたかということを、あらためてロック・ファンに伝え、またこの公園の貴重な自然を残していくことの意義を訴えたいのです。
すぐれた音楽は世代や時代を超えて受け継がれていきます。実行委員会のメンバーのほとんどは、狭山で生まれ育った者たちです。狭山という街で生まれた音楽や、それと切り離すことのできない稲荷山公園の素晴らしさを、ひとりでも多くの人たちに知ってもらいたい。そして、この公園で、みんなで一緒に音楽を楽しみたい―。いまもこの街に暮らすロック好きのわたしたちは、心からそう思っています。

ハイドパーク・ミュージック・フェスティバル協会

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